名細公民館 男のゆうゆう塾で弊社取締役 岡部逸雄講演 2

白バイ・成田闘争警備・そして刑事へ。

川越警察署勤務から、白バイ隊員を志願。荒川河川敷で大きなバイクを使っての訓練。指導官がとても厳しく「下手な運転をすると死ぬぞ!」その指導官の大きな声が今でも印象的だ。サイレンを鳴らす緊急走行や取り締まりができる白バイ検定をパス。念願の白バイ隊員となった。身分は関東管区機動隊に所属。

昭和52年から54年は成田闘争警備にあたり、極左のデモ隊と競り合った。一番つらかったのは三日寝ずの警備。72時間通しというのは大変だった。その警備が終わり大人数の隊員で風呂にはいると若い警官の汗でお湯はドロドロに。それだけ過酷な現場であった。

関東管区機動隊は埼玉、群馬、新潟、栃木、神奈川、静岡、山梨、茨城、千葉の県警で成りたっており、他県の警察官と一緒に仕事ができたことは貴重な体験だった。

白バイ隊員として得たものは上下関係の厳しさ。先輩の白バイだけではなく、長靴、冬になると皮の上下の制服をピカピカに磨くことから教えられた。それでも先輩からの指導は「いじめ」ではない。最終的な責任は先輩が後輩の分まで持つ、面倒をみるといったことを日々学んでいった。

自分が担当したのは通称浦所バイパス、国道463号。アパッチというアメリカの原住民アパッチが砦から敵をみる言葉をもじった作戦で速度超過などの車を取り締まった。訓練で学んだ運転手の死角にはいり、厳しく違反車両を取り締まった。しかし、取り締まりをしていくなかで、違反者は過失が多いということにも気がついてきた。(違反したくてやっているのではない。ほんの気の緩みが大半)取り締まりも事故防止のためのもの。善良な市民との取り締まりを通じてのやりとりの中でいろいろな想いも錯綜した。(違反切符をきられても反抗的な人は本当にひと握りだった)。汗と泥と盾の成田闘争警備と小石の飛散と排ガスとの戦いの白バイ隊員から、次なる舞台の希望をきかれつ時期となった。交通機動隊で白バイ続行か、それとも機動捜査隊にはいって刑事の道か。思案のすえ、白バイは若い時だけ?歳を重ねてもできる「刑事」の道、機動捜査隊を希望した。

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弊社取締役 講演 刑事の人生 岡部逸雄 名細公民館で ①

 

地域で、新しい絆をつくるべく熱心な公民館活動をされている「男のゆうゆう塾」(斉藤誠代表)。この塾の12月19日講座の講師を弊社取締役 岡部逸雄が依頼され、約90分にわたる講演とその後の質疑応答で、自分の警察人生を語りつつ防犯や地域への思いが語られた。2015年をしめくくる記事として3回にわたってアップする。

1 警察官になるまで

本日、男のゆうゆう塾で講演できるご縁は、この代表斉藤誠さんが、妻が出版サポートした「川越100の顔」の取材で斉藤誠さんと出会ったことがきっかけ。「川越100の顔」は現在でも蔵造りのまちなみの中の太陽堂さんの店頭に並んでいますので、ぜひ、よろしくお願いします。(笑)

刑事を長くやっていきて、大勢の人の前で話すことはあまりなかった。取調室で「被疑者(犯人)を落とす!」ということを使命に生きてきたのでどれだけ今日うまくいくかわからない。(西入間署勤務のとき地域の中学校で「警察の仕事と使命感」と講演した、それ以来の出来事でちょっと緊張(汗))。

私の故郷は秋田県男鹿半島の先、バスケットと秋田杉で有名な能代市。農家の長男に生まれ、農業を継ぐつもりで地元の農業高校に進んだ。しかし、父から「将来農業で食べていくことは難しい。兼業農家であっても手に職を」と進言され、親戚の大工のもとで、修行。埼玉県飯能市で新設の幼稚園の建築で初仕事。しかし、自分に合っているかどうか逡巡。秋田に戻った時、自衛官や警察官として働いたらという母の知り合いからの勧めもあり、大工を断念。好きなバイクに乗れる「白バイ」いいな!という気持ちで警察官採用試験に挑戦。警視庁、神奈川県警、千葉県警、埼玉県警、という選択肢の中、飯能の緑や風景を思い出し埼玉県警の試験をうけた。秋田県立能代農業高校卒業、半年後のことだった。

採用試験にパス、警察学校で学んだあと初任地は川越署本川越交番だった。昭和50年10月、制服に身を包んだ地域警察官としてのスタート。当時の本川越の駅舎は木造。駅の周りにはケーキ屋さん、お茶屋さんなど。先輩と一緒に自転車に乗って、警らをして管内をぐるぐる巡回。静かな時代でもあった。

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