小江戸飛雁会 再起動 氷川神社山田宮司講師に学習会

川越市内には各企業の支店、支社が存在し、そのトップは二年、三年たつと次の赴任地へ飛び立つ。トップを川越の市の鳥「雁」になぞらえ命名された「飛雁会」。代表幹事は共和木材の馬場弘社長。

「縁あって川越に赴任してきた企業戦士とともに川越について学び、川越のおいしいものを食べ、おいしいお酒を飲むという気持ちで過去2か月から3か月に一回開催し、50回くらいの勉強会を重ねてきた。卒業証書を出したこともある。現在時の鐘の修復、松平五代にわたる墓の修復、市内の存在する前方後円墳の逆の形(後方前円墳?)の保持から国指定文化財への登録推進など市内の文化財を一つずつ学ぶことも大切かと。このように多くの文化財が息づく川越市。これは天災に合わない地盤の強さ、住んでいる人の経済力と行政支援のたまもの。飛雁会のみなさんには川越のいい面をたくさん知って、川越ファンになっていただき、個人的な川越親善大使になって全国各地に飛び立ってほしい」と馬場代表幹事から挨拶があった。

山田禎久氷川神社宮司 講演

涼しい風に乗ってお囃子の練習の音が聞こえてくると川越っ子の心ははやる。町中に紅白の幕が張られお祭りの準備が始まる。数日間貼られる紅白の幕は「軒端ぞろえ」「軒ぞろい」と言われ古い書物には「マチゾロエ」と記されているものもある。

「まつり」の語源は①待つ(神様を待ち受けてごちそうを差し上げ今後の安寧をお願いする)②奉る③昔はほとんどの家庭が農業。そしてお祭りの時だけお寺や神社の門前に市が立つ。「市」とは賑わいを表すもので「市」はマチ。と考えられる。祭りの時はお休みで、神様へごちそうを供え、そのごちそうをいただくこともできる。祭りとはレジャーでもあった。神様と人、人と人がふれあう場が祭だった。

川越まつりは最大のイベントという言い回しはふさわしくない。「祭り」と「イベント」は真逆。「イベント」は毎回工夫しないと陳腐化しあきられてしまう。「まつり」は100年前も100年後も同じことの繰り返し。このがんこなことがまつりの意義を高めていく。

日本人は風、石、草木、海、川にも神が宿るとし人間の力が及ばないものとして手を合わせる、それが宗教心、精神文化となってきた。山、森、川、海から自然の恵みを得て、恵みに感謝しつつ、一方で津波、洪水、大雨といった自然災害を畏れた。また農耕民族と狩猟民族は根本が違う。狩猟民族は狩りの出来不出来が差となる。農業の中心は稲作であり、豊作も凶作も共同体として受け止めなければならない。自分だけ、個人だけがいいということはなく、個人が豊かなことは地域も豊かであるということ。

長瀞にある宝登山神社の宮司は「宝物は田からなるもの、稲ではないか。稲の生育は人の工夫や努力だけではなく、おひさまが降り注ぎ、水がうるおいを与え、風が吹き、人間の力を超えたところにある」と教えてくれた。人間は成功は自分の努力と能力があってと思いがちだが、自分だけの力だけでは成功できないもの。

おまつりは個人的なものではく、個を超えた公の祈りの場。春まつり、夏まつり、秋まつりそれぞれに精神的な裏付けがあり、いつの時代になってもかわらないものがおまつり。

武蔵の国に集中する氷川神社、その数280。荒川ぞいに点在することから荒れる川を鎮めることからか?川越氷川神社には5つの柱(柱は神様のこと)が祀られている。二組の夫婦と出雲大社の縁結びの神、大己貴命が祀られていること、この神々が家族であることから縁結び、夫婦円満、家庭円満と崇敬されている。氷川神社が創建された日を再現するのが川越まつり。氷川神社が創建された日、誕生日を祝う意味ではない。旧暦の9月15日、奇しくも関ケ原の戦いで徳川が勝った日でもある。神幸祭は川越まつりの起源。私は馬の乗り神様を警護する、神幸行列の後ろには山車が並ぶ。神様がまちにお力をふりまく日である。

新たな技術や科学の発達。その発達に追いつくことで安心を得ようとしている向きがあるがそれが真の安心なのか?何年たってもかわらないものをよりどころとすることも大切なのではないか。中島みゆきの「糸」という唄から考えると縦の糸は先祖から子孫へつながる川越の歴史、横の糸は今を生きる川越の街の結束、その交差点がまつりではないか。この縦の糸、横の糸が織りなす布が川越を守っていくことを信じ、氷川祭の根本的な歴史を語るおまつりを継続維持していきたい。