令和6年8月23日 ウエスタ川越小ホールで行われた「大地のつどい」。「大地のつどい」は小江戸川越「大地の園」の会が主催してる。100年前の川越が描かれたのは作家・打木村治の自伝的長編小説「大地の園」を市民に広く周知し、主人公「保」が旧制川越中学校の生活を送った当時の川越に思いを馳せるとともに川越の歴史を知り、これからの川越を文化・芸術のあふれるまちにしようと活動をしている。代表は笠幡の篤志家、霞ヶ関カンツリー倶楽部に土地を提供し、埼玉育児院を拓いた発智庄平氏の孫、発智金一郎氏。
23日の基調講演・講師は川越市文化財保護審議会副会長の松尾鉄城氏。
明治大正期を中心に「川越の女子教育を拓いた人々」をテーマに熱弁をふるった。
星野学園創始者の「星野りち」、山村学園創始者「山村ふみよ」私立川越女学校創設に奔走した「田井正一」にスポットライトが充てられた。
県立川越女子の前身となる町立川越高等女学校はそもそも「日本聖公会川越キリスト教会」の司祭が校長をつとめた私立女学校だった。当時の町長岡田氏は女子教育に理解をしめし、賛助者でもあり国語漢文の教師までつとめた。福岡河岸船問屋の星野仙蔵氏、菓舗亀屋の山﨑嘉七氏の協力をえて学校は運営されたが、「女子に学問、教育を」と政治も旦那衆も心を一つとなったことが、偉大だ。
豪商の家に生まれ父親の理解をえて東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大学・同時期近代日本で初めての女性医師となった埼玉出身の荻野吟子も学んでいた)に進み、川越の繊維産業に役立つ裁縫・手芸・礼儀作法に力を注いだ星野りち。生家の屋号は「碇屋」、その碇と鏡が校章のモチーフで、「信念の碇をおろし、常に鏡に自分を映し信念がブレてはいないか点検してほしい」という意味らしい。
一方の山村ふみよ。出稼ぎに川越に向かった両親を追いかけ、父母の姿をみて、14歳の時、石川製糸川越工場で働き始める。毎晩両親を説得し、進学の道へ。「女性が学問?」という時代その道はさぞかし険しかったに違いない。ふみよは東京裁縫女学校(現在の東京家政大学)を卒業し、20歳の若さで喜多院北参道の地に「裁縫手芸伝習所山村塾」を開校する。
女性活躍社会などといわれても企業の役員数、政治の世界にあっては議員数、など女性の比率はまだまだ低い。
女性教育パイオニアの地としての川越。その矜持を次なる世代に伝えていくべきだ。画像は23日の基調講演の模様。