まちづくりを語る 川越市 笠嶋七生都市計画部長 小江戸飛雁会で

川越で働く保険・金融・證券など出先機関の人々に川越の歴史・文化・グルメを知ってもらおうと、年4回程度開催されている小江戸飛雁会。今回の講師は国交省から出向の川越都市計画部 笠嶋七生氏。

「国交省の係員・係長時代は政策パッケージのとりまとめ。課長補佐になり、政策を考えていくポジションとなった。消費者庁出向から昨年夏川越市へ、都市計画部長に就任した。川越市は公園整備の遅れなどがあるが、まちづくりは10年、それ以上のスパンで考えるもの。川越がより輝きを増すためにも、住民主体のまちづくりは必須。川越は蔵造りをまもるために市民がたちあがったまち。地域住民がそのまちの景観形成に参画する事例のさきがけでもある。「市民」が景観形成への意識の向上が強いということ。それらを念頭に、公共の磁力を高めていきたい。人が集まり、企業が集まり、磁力を放つまち川越を作っていきたい」と笠嶋氏。

時代も川越も大きな転換点を迎える今、笠嶋氏の発想は頼もしい。




山田宮司 講話 小江戸飛雁会で 

小江戸飛雁会は川越に支店をもつ企業、支店長、支社長に川越の文化、歴史、を学んでもらい、また川越グルメを紹介するという会合。年4回くらいのペースで開催されている。次なる転任地で「川越をよくPRしてもらおう」。川越の鳥「雁」が飛び立つから「飛雁会」とネーミングされた。監修は共和木材(株)の馬場弘会長。

先般行われた川越まつり直前の山田禎久宮司の講話を紹介する

山田宮司講話

春の祭りは「五穀豊穣を願って」秋の祭りは「農作物の実りを感謝」それがはじまり。

十月の異名は神無月、六月は水無月。神様がいらっしゃらないのではなく、「神乃月」。もちろん六月も「水乃月」、あれだけ雨のシーズンなのだから。明治時代までは「神仏習合」であり、お寺社は一体であった。僧侶はみなさんと先祖をつなぐ縦の糸。神主は活きているみなさんのむすびつきをするいわば横の糸。神道は教祖、教義、経典もない。神社は地域に根差した暮らし向きと精神をささえるもの。伊勢でサミットが行われたときに故安倍首相が伊勢神宮を参拝した各国首脳に「ここは日本で一番旧く、一番新しい神社」と説明した。伊勢神宮は20年に一度、式年遷宮を行うから。日本が誇る木の文化。20年に一度造りかえることで、技術の伝承もかなう。定期的なあらたまりは、再現、そして永遠につながる。まさに長くて新しい。トコワカでもある(常に若い)。組織のトップに「長」を使う。「長い」を重んじ、組織を強くする、大きくするの意味ではないか?「まつり」の語源は「神様をたてまつる、神様をおまちする」から。神輿も山車も地域全体の繁栄と地域住民を元気づけるもの。おめでたい言葉に「松竹梅」とある。中でも「竹」.成長のシンボル。節を刻んで伸びていく。人生の節目、企業団体の創立などに神社はかかわっていく。日本人は自然の恵みを享受している。森からは実を、川からは魚を。四季もある。しかし、水は洪水、海は津波、など時々人間に試練を与える。だからこそ、自然に感謝をし、畏れていかなければならない。かみさまの「かみ」とはくまなくの意味。目にみえないが確実に力を発揮するもの。氷川神社も日中のにぎわいとはうってかわった、朝夕の静けさに、神社の魅力がある。今日の話から神社とまつりを考察していただけるとありがたい。




小江戸飛雁会 再起動 氷川神社山田宮司講師に学習会

川越市内には各企業の支店、支社が存在し、そのトップは二年、三年たつと次の赴任地へ飛び立つ。トップを川越の市の鳥「雁」になぞらえ命名された「飛雁会」。代表幹事は共和木材の馬場弘社長。

「縁あって川越に赴任してきた企業戦士とともに川越について学び、川越のおいしいものを食べ、おいしいお酒を飲むという気持ちで過去2か月から3か月に一回開催し、50回くらいの勉強会を重ねてきた。卒業証書を出したこともある。現在時の鐘の修復、松平五代にわたる墓の修復、市内の存在する前方後円墳の逆の形(後方前円墳?)の保持から国指定文化財への登録推進など市内の文化財を一つずつ学ぶことも大切かと。このように多くの文化財が息づく川越市。これは天災に合わない地盤の強さ、住んでいる人の経済力と行政支援のたまもの。飛雁会のみなさんには川越のいい面をたくさん知って、川越ファンになっていただき、個人的な川越親善大使になって全国各地に飛び立ってほしい」と馬場代表幹事から挨拶があった。

山田禎久氷川神社宮司 講演

涼しい風に乗ってお囃子の練習の音が聞こえてくると川越っ子の心ははやる。町中に紅白の幕が張られお祭りの準備が始まる。数日間貼られる紅白の幕は「軒端ぞろえ」「軒ぞろい」と言われ古い書物には「マチゾロエ」と記されているものもある。

「まつり」の語源は①待つ(神様を待ち受けてごちそうを差し上げ今後の安寧をお願いする)②奉る③昔はほとんどの家庭が農業。そしてお祭りの時だけお寺や神社の門前に市が立つ。「市」とは賑わいを表すもので「市」はマチ。と考えられる。祭りの時はお休みで、神様へごちそうを供え、そのごちそうをいただくこともできる。祭りとはレジャーでもあった。神様と人、人と人がふれあう場が祭だった。

川越まつりは最大のイベントという言い回しはふさわしくない。「祭り」と「イベント」は真逆。「イベント」は毎回工夫しないと陳腐化しあきられてしまう。「まつり」は100年前も100年後も同じことの繰り返し。このがんこなことがまつりの意義を高めていく。

日本人は風、石、草木、海、川にも神が宿るとし人間の力が及ばないものとして手を合わせる、それが宗教心、精神文化となってきた。山、森、川、海から自然の恵みを得て、恵みに感謝しつつ、一方で津波、洪水、大雨といった自然災害を畏れた。また農耕民族と狩猟民族は根本が違う。狩猟民族は狩りの出来不出来が差となる。農業の中心は稲作であり、豊作も凶作も共同体として受け止めなければならない。自分だけ、個人だけがいいということはなく、個人が豊かなことは地域も豊かであるということ。

長瀞にある宝登山神社の宮司は「宝物は田からなるもの、稲ではないか。稲の生育は人の工夫や努力だけではなく、おひさまが降り注ぎ、水がうるおいを与え、風が吹き、人間の力を超えたところにある」と教えてくれた。人間は成功は自分の努力と能力があってと思いがちだが、自分だけの力だけでは成功できないもの。

おまつりは個人的なものではく、個を超えた公の祈りの場。春まつり、夏まつり、秋まつりそれぞれに精神的な裏付けがあり、いつの時代になってもかわらないものがおまつり。

武蔵の国に集中する氷川神社、その数280。荒川ぞいに点在することから荒れる川を鎮めることからか?川越氷川神社には5つの柱(柱は神様のこと)が祀られている。二組の夫婦と出雲大社の縁結びの神、大己貴命が祀られていること、この神々が家族であることから縁結び、夫婦円満、家庭円満と崇敬されている。氷川神社が創建された日を再現するのが川越まつり。氷川神社が創建された日、誕生日を祝う意味ではない。旧暦の9月15日、奇しくも関ケ原の戦いで徳川が勝った日でもある。神幸祭は川越まつりの起源。私は馬の乗り神様を警護する、神幸行列の後ろには山車が並ぶ。神様がまちにお力をふりまく日である。

新たな技術や科学の発達。その発達に追いつくことで安心を得ようとしている向きがあるがそれが真の安心なのか?何年たってもかわらないものをよりどころとすることも大切なのではないか。中島みゆきの「糸」という唄から考えると縦の糸は先祖から子孫へつながる川越の歴史、横の糸は今を生きる川越の街の結束、その交差点がまつりではないか。この縦の糸、横の糸が織りなす布が川越を守っていくことを信じ、氷川祭の根本的な歴史を語るおまつりを継続維持していきたい。