病には勝てず 元県議会議員 大川修司氏逝く

飯能市議、埼玉県議会議員をつとめた大川修司氏が令和7年10月30日16時55分愛娘たちに見守れながら旅立った。

大川氏の父は埼玉県飯能市をはじめ、所沢、入間、狭山、上福岡、日高と上水道を設計し、その道の父と呼ばれた。

大川氏は飯能高校在学中に国体に出場した卓球選手。その腕は進んだ学習院大学でも磨き続け、ペンホルダーからくりだされる緩急のあるサービスと速攻型のスタイルで後進の指導にもあたった。学習院大学を卒業後は東京総合美容専門学校でフランス語の授業を担当した。

飯能高校の先輩たちに「大川、市議選に挑戦したらどうか」という声にこたえて26歳で市議選に出馬当選。その後県議選に挑戦したのは昭和58年、40歳の時。自民党県議団にはいってイキイキと活動。県議団の方向性に疑問を感じた一期生二期生が中心となって第一議員団を結成したこと、ある日の県議会では一般質問時に原稿のない状況で質疑をしたこと、この2点は大川氏にとっては諸刃の剣となった。あまりにキレすぎると人心掌握がゆるくなる、また第一議員団も選挙という洗礼にはマイナスとなった。飯能では市長選が二年前に行われ、大川氏は保守系沢辺瀞壱氏を応援することなく、リベラル系の小山誠三氏をかつぎ当選した。(画像がそのときのもの)この小山氏市長選勝利も大川氏の足かせとなったのだ。県議選に敗れたあと、大川氏は市議に戻る。しかし、大川氏は一人の企業家として、若手政治家の教育とまちづくりに軸足をおくこととなる。

何人もの候補者のサポート。なかでもふじみ野市議から市長選に挑戦した高畑博氏、埼玉県議からさいたま市長選に挑戦した清水勇人氏への思い入れはひとしおだった。大川氏は5期目の挑戦だった高畑氏の当選は意識が混濁するなかでもしっかりうけとめ、酸素マスクの中で「タカハタ」と発した。

私は大川修司氏の姉の娘。姪という枠だけではなく、叔父の秘書をつとめ、私の起業にもアドバイスを厳しくしてくれたことはある意味でのビジネスパートナーであった。

自分のチカラを信じ、自分のチカラを頼りに闘い、道を拓き、燃えた叔父の生きざま。一方で哀しさ、寂しさは常について回ったはず。

私と叔父をよく知る人物から、「思いを荷負うて一人旅立つ」とメッセージが届いた。

「生涯現役、それしかない、がんばれ!」と言った言葉を私は胸にする。合掌




飯能で郷土芸能を!18日14時から

武蔵野の奥座敷、飯能。さまざまな文化が息づいています。

2月18日(日)14時から飯能市民会館大ホールで郷土文化が一同に会す。

題して「飯能市郷土芸能フェステイバル」。

飯能の郷土芸能をぜひ。