今ここに甦るクオリテイ埼玉 アーカイブは当レインボーネット川越で

元埼玉県議会議員・大川修司氏が心血を注ぎ、何人もの執筆陣を率いて長い間運営配信していた株式会社日本電子新聞社のクオリテイ埼玉。大川氏の逝去とともに、唐突に乱暴に突然閉鎖となってしまった。大川氏の遺族のたっての強い希望もあり、弊社運営のこの「レインボーネット川越」でできうる限りアーカイブ的に配信する運びとなった。今回登場は「葉桜こい」さん。

「戦争と平和と茶の湯と」。

トランプ大統領が意識していた「ノーベル平和賞」。それもかなわぬ夢となったが、2025年から2026年への年の瀬を迎えて、戦争とは、また平和とは何なのか、改めて考えさせられる。

今年も歴史を生み出し、様々な分野で歴史を生み出した方々が黄泉へと旅立った。まさに「巨星墜つ」。野球の長嶋茂雄さん、ゴルフの尾崎将司さん、歌手の橋幸夫さん、俳優の仲代達矢さん、そして茶の湯の千玄室さん。

茶道裏千家・前家元の千玄室さんは終戦記念日の前日にお亡くなりになった。彼は「空飛ぶ家元」の異名を持つ、言わずと知れた元特攻隊員だ。終戦ではなく「敗戦」という言葉を選んで発言をされてきた。国際ロータリーでは理事としての役職をもった。茶道文化を海外に広め献茶や講演をして「一盌(いちわん)からピースフルネスを」の理念を提唱し続けた。千玄室さんは戦争体験の語り部として際立つ存在。人を惹きつけてやまない威厳とあたたかみ、どちらも兼ね備えた貴重な方と断言できる。

相手を敬う「間」を大切にしていた千玄室さん。一盌のお茶は喉だけでなく心も潤し、癒す。茶の湯の精神、茶のチカラを通じて相手を敬う交流を続け、世界平和を訴え続けた。そこから生み出されるものは「信頼」。信頼関係を更に発展・発展へと導いた千さん。今年は戦後(敗戦)80年。千玄室さんの茶の湯の精神はより一層ひたむきな祈りとなり世界を静かに包み込んでいる。(文責 葉桜こい)

画像は日本青年会議所・京都会議で講演する千玄室さん(友人提供)




病には勝てず 元県議会議員 大川修司氏逝く

飯能市議、埼玉県議会議員をつとめた大川修司氏が令和7年10月30日16時55分愛娘たちに見守れながら旅立った。

大川氏の父は埼玉県飯能市をはじめ、所沢、入間、狭山、上福岡、日高と上水道を設計し、その道の父と呼ばれた。

大川氏は飯能高校在学中に国体に出場した卓球選手。その腕は進んだ学習院大学でも磨き続け、ペンホルダーからくりだされる緩急のあるサービスと速攻型のスタイルで後進の指導にもあたった。学習院大学を卒業後は東京総合美容専門学校でフランス語の授業を担当した。

飯能高校の先輩たちに「大川、市議選に挑戦したらどうか」という声にこたえて26歳で市議選に出馬当選。その後県議選に挑戦したのは昭和58年、40歳の時。自民党県議団にはいってイキイキと活動。県議団の方向性に疑問を感じた一期生二期生が中心となって第一議員団を結成したこと、ある日の県議会では一般質問時に原稿のない状況で質疑をしたこと、この2点は大川氏にとっては諸刃の剣となった。あまりにキレすぎると人心掌握がゆるくなる、また第一議員団も選挙という洗礼にはマイナスとなった。飯能では市長選が二年前に行われ、大川氏は保守系沢辺瀞壱氏を応援することなく、リベラル系の小山誠三氏をかつぎ当選した。(画像がそのときのもの)この小山氏市長選勝利も大川氏の足かせとなったのだ。県議選に敗れたあと、大川氏は市議に戻る。しかし、大川氏は一人の企業家として、若手政治家の教育とまちづくりに軸足をおくこととなる。

何人もの候補者のサポート。なかでもふじみ野市議から市長選に挑戦した高畑博氏、埼玉県議からさいたま市長選に挑戦した清水勇人氏への思い入れはひとしおだった。大川氏は5期目の挑戦だった高畑氏の当選は意識が混濁するなかでもしっかりうけとめ、酸素マスクの中で「タカハタ」と発した。

私は大川修司氏の姉の娘。姪という枠だけではなく、叔父の秘書をつとめ、私の起業にもアドバイスを厳しくしてくれたことはある意味でのビジネスパートナーであった。

自分のチカラを信じ、自分のチカラを頼りに闘い、道を拓き、燃えた叔父の生きざま。一方で哀しさ、寂しさは常について回ったはず。

私と叔父をよく知る人物から、「思いを荷負うて一人旅立つ」とメッセージが届いた。

「生涯現役、それしかない、がんばれ!」と言った言葉を私は胸にする。合掌