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白岡の川の立体交差など 川と関東平野の歴史を出版 山本一夫さん

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埼玉県東部・梨のおいしい白岡市。現在では圏央道の白岡菖蒲IC 久喜白岡JCTなどでも目にする名前だ。この白岡は川が立体交差する場所が9か所もあり「川が生みだした歴史ある街」ともいえる。

このほど、白岡の歴史を語る会の山本一夫さんは「関東平野東部地区の用排水河川変遷の歴史」という本を出版した。

江戸時代初期からの川の変遷など、資料に忠実に詳細にあらわされており、先人たちの知恵と汗の結晶、埼玉の歴史と川を知る興味深い一冊となっている。(非売品)

山本氏は早稲田大学第一理工学部から(株)横河橋梁製作所(現在は株式会社横河ブリッジ)に入社。千葉県香取市と茨城県稲敷を結ぶ「水郷大橋」を設計。すぐれた特色をもつものに贈られる土木学会田中賞を受賞するなど、エンジニアとしても一流。山本氏が退職後、関東平野東部地区の河川をめぐる歴史を探求してきた足跡は人生100年時代のシンボル的な行動であり、山本氏と河川、なんともすばらしいパートナーシップだ。

まえがき抜粋

秀吉から関東への国替えを言われた家康。当時、利根川、荒川など多くの河川が氾濫していた。家康の信任が厚い、伊奈忠次(地方巧者・じかたこうしゃ、土木に秀でた地方行政官)は「関東平野はやりようによっては新天地に変わる、今秀吉と敵対してことを構えるのは得策ではない」と皆を説得し、家康は江戸入府する。手がけたことは利根川の東遷と荒川の西遷。家康は四男の忠吉を忍城主に。忍城を洪水から守るため、利根川を現在の羽生で瀬替え、60年かけて銚子に流下。荒川は熊谷久下で切り離し入間川で瀬替え現在の流路に。8代将軍吉宗は沼沢干拓事業を推進。利根川を行田の下中条から取水し、総延長80キロ日本三大用水・見沼代用水を開削。これらの新田開発によって江戸初期1800万石のコメの生産量は江戸末期には3000万石になった。

 

 

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