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埼玉の米山の父 逝く 元国際ロータリー第2570地区ガバナー金子千侍先生

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「秩父音頭」を踊れないと「旦那」とは言われない。戦前戦後から言い伝えられてきた盆踊り。

「秩父音頭」は秩父市で生まれたものではなく発祥の地は皆野町だ。 口伝されてきた唄を「秩父豊年踊り」として昭和初期復興させたのが医師でもある皆野の俳人・金子伊昔紅(かねこいせきこう)。毎年14日皆野町で「秩父音頭まつりコンテスト」が開催され、秩父谷の皆野町のメインストリートには何か所かの練習スポットが設けられそこにはのど自慢の歌い手が「花の長瀞あの岩畳誰を待つやらおぼろ月」など秩父の風景が盛り込まれた秩父音頭を披露。合いの手の「そうともそうともそうだんべ」が哀愁を漂わせる。

さて金子伊昔紅氏のご子息が今でも意気軒昂に活躍する熊谷在住の俳人「金子兜太」先生。その弟が「金子千侍」先生。

金子千侍先生は家を継ぎ、皆野町で医師として活躍。先月闘病の末ご逝去されたが、聴診器を持たなかったのはご自身が入院された時だけ。88歳。俳句の会を主宰したり、国際ロータリーでは埼玉西北地区の顔・ガバナーにも就任。以来アジアを中心とした海外からの留学生支援プログラム・米山記念奨学会の副理事長として多くの学生から「埼玉の米山の父」と慕われた。特に「俳句に親しむ」「秩父音頭を踊る」といった日本文化を留学生に指導。将来日本と自国のかけはしになるであろう留学生により日本に親しみをもってもらえるかを発信しつづけた。

「秩父音頭」は秩父のシンボル武甲山、大きな鳥が秩父連峰を舞うシーン、秩父産業の一つ「蚕」、女性が手鏡を使う仕草などがとりいれられている。金子千侍先生は秩父音頭の家元として、80歳を超えても背筋をすっと伸ばし、指先、目元まで神経のゆきとどいた「踊り」の手本をしめしてくれた。

金子先生がそちら側に逝ってしまったという実感がまだない。今年の盆の「秩父音頭まつり」。先生のいない審査員席が想像できない。

伊勢谷珠子